【こんな夜更けにバナナかよ】自分で決めるんだ!【読書感想文】
自立とは、誰の助けも必要としないということではない。
何をしたいかを自分で決めること。
だいじなことは精神的に自立すること。渡辺一史『こんな夜更けにバナナかよ』(文春文庫、2013年)
はじめに
それはリハビリを担当していた患者さんから「読んでみて」と言われていた本でした。
私はその本のタイトルだけはすでに知っていました。
なぜなら私の大好きなTV番組『水曜どうでしょう』の大泉洋さんが主演している映画の原作だったからです。
私は大学生時代に札幌に住んでいました。
毎週水曜日の深夜0時過ぎに「水曜どうでしょう」を見ながら試験勉強をしていました。
(実際には木曜日に放送していたんですよね)
今は北海道を代表する超大物タレントになられた大泉洋さん。
当時からミスターと大泉さん、
そして声しか聞こえないスタッフ(藤村D・嬉野D)の掛け合いが面白くて、私は4人のファンでした。
こんなお話
映画『こんな夜更けにバナナかよ』は、
主演大泉さんが演じる身体中の筋肉が壊れていく難病、筋ジストロフィーを患っていた鹿野靖明さんのお話です。
鹿野さんのちょっとわがままに見える性格を、大泉さんがとても上手に表現できていると思いながら見ました。
そして原作は『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』というノンフィクションで、自分で何でも決めて生きていきたいと考える寝たきり状態の鹿野さんと、介助者なのか、都合のいい召使にされているのか、あるいは保護者なのか、ただの傍観者にすぎないのかと自分の立場をそれぞれが考えていくボランティアさん達の実録で、介護・福祉の現場、制度などの問題、それに関わるそれぞれの人達などを深く考えさせられるルポタージュです。
知らず識らずのうちにできてしまう上下関係
一般的な介護・福祉の印象は、
「不自由な障害者が周りの人に支えられる」
というイメージが強いのではないでしょうか。
私自身も知らず識らずのうちにそのような「障害者観」や「弱者観」に陥っていた気がします。
しかしこの表現自体にすでに上下関係を作ってしまう要素が無意識的に含んでいるようです。
「助けられる人」と「助ける人」と別けた時点で、自然と上下関係ができてしまう。
社会生活をしていれば、健康な人だっていろんな人と助け合いながら暮らしている。
みんな支え合って生きていて、そこに本当は上下関係はない。
でもなぜか、介護・福祉の中では自然と上下関係を感じやすい。
障害の状態によっては健常の人にとってはごくふつうのことを手伝ってもらわないといけない。
普通のことができないということは、
助けてもらわなければ生きていけないということがとても簡単に実感できてしまうものです。
対等で、家族で、友人で
この本では、寝たきりの鹿野さんがボランティアさんなどに身体面で支えられ、
ボランティアさんたちは鹿野さんとの関わりから色々影響され考えて変化していく。
鹿野さんの介護現場では、「助けられる人」「助ける人」の上下関係ではなく、
鹿野さんとボランティアさんたちの「人対人」の関係。
だからボランティアさんたちも遠慮せずに、
鹿野さんと喧嘩するし、ボランティアさんも鹿野さんに相談することだってあるし、一緒に楽しむときは楽しむ。
そこには遠慮なんかない。
身体的には障害があって不自由でも、精神的には同等の立場であり、健康な人同士との関わりと同じ。
心のバリアフリー。
この関係のほうが健全なんだよなとハッと気づかされる。
鹿野さんは
「自立」とは「自分のことを自分で決めること」
と言う。
「精神的に自立すること」がバリアフリーの本質なのかもしれない。
身体が不自由でも、自分でやりたいことを誰かに助けてもらいながら実現できること。
ボランティアの方が鹿野さんを見ていてこのように答えていました。
「“あつかましさ”っていうのが人にとっていかに大事か。
最初は嫌がられても、追い返されても、はねつけられてもね、
情熱さえあれば、結局人って動いてくれるし、最終的にはわかってくれる」
自分のことを自分で決めて
体に悪いことだって、本人が納得してやりたいことならいいかもしれない。
私だって、身体に良くないことは分かっていても
ジャンクフード好きで食べちゃうもん。( ; -᷄ ω-᷅)
でもそれがその人が自分で決めた最高の生活の質なのだから、それでいいんだよ、きっと。
※ここでは参考文献の方針に準じ「障害者」と「障がい者」の使い分けとして「障害者」という表記をしております。